ミルコ日記

趣味や日々の思いを綴ります。

充実した人生とは趣味と仕事を考える~人生の趣味~

趣味は仕事か、仕事が趣味か

  • 仕事を趣味にするのは幸せ?

好きでする趣味はしたいが、仕事にはしたくないという場合もある。実のところ結果として大半がこれであろう。

「この趣味が仕事になればどんなに日々が楽しいだろう」と思いつつも、仕事に日常の大半の時間を費やし、たまの休みは趣味に費やしストレス発散、気分転換し、リフレッシュを図るというものだ。

趣味がプロレベルに達している人であっても、この分類に大体収まっている。

私の場合、仕事に関しては適当にするのはあまり好まな。ある程度の完成度・達成が見込めるところまでは一気に済ませて、期日が決まっていれば、その一歩手前で完成させることを目指す。

それでいて年収はその仕事の評価だと思うので、それなりの金額を貰うだけの自負はある。いくつか転職をしているが、最初は趣味の写真に関われる会社を選んだ。

よって映像産業の中にいた。好きな写真撮影ができるわけではなく、写真業界の商材を売るビジネスであった為、営業としての一般的な業務をこなしていた。

営業事務職であり、普通のビジネスマンである。社内での異動で、企画や総務、管理部門に職種に就くこともたびたびあった為、業界のビジネスマンとしてのスキルや、管理能力は磨かれ出世もした。

しかし、結局趣味としての写真に関しては知識は増えたものの、撮影能力が磨かれることはなかった。

逆に、仕事で好きな写真関連に関わっていたにも拘わらず、趣味としては陶芸や、油絵、木彫、レザークラフト、トンボ玉などに興味を持つようになった。

加えて、中学校から大学、社会人と続けていた少林寺拳法やテコンドーなどの格闘技を続ける傍ら、フォークソングギター演奏やクラシック音楽の鑑賞、ピアノ演奏、仏像彫刻と、歯止めが無くなった。

趣味が広がっていった。まあ、写真撮影も趣味の一つとして残して来てはいたが、どちらかと言うとイベント(冠婚葬祭・旅行等)に撮影チャンスがあり、こういうものには率先して写真を撮っていたが、芸術まで高めたかと言うと、飽くまでもシーズンカメラマンのテクニック向上程度であった。

趣味で写真に拘ると言うのは、写真は動物、風景、人物、スポーツと被写体によって、機材やテクニックが違います。

人物は、スタジオ、野外のコスチューム(服を着た人)撮影からヌードと色々あるが、人物とのコミュニケーションの上手下手が重要である。

動物はその動物の生態をよく理解し、機材を選び、仕掛け等を準備して、イメージ通りの動きや表情がとれるまで、ショット数を惜しまず撮り続けて、気に入ったベストショットを選ぶ。

風景・ネイチャーは望むショットイメージになるまで、ベスト思われるポジションでその時が来るまで待つ。例えば、気に入った電車が一番きれいに映るバックに来る瞬間まで、その撮影ポジションで待ち続ける鉄道ファンを思えばよくわかる。

これらの信念とテクニックを持ちえない私には趣味として深めているとは言えない。

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  • 仕事と趣味との違い

仕事に関する取り組み方、考え方と趣味に対する姿勢や考え方は近いものがあり、ある程度までは拘るものの、極めるまではしない。

「広く浅く」に近いが、プラス「拘る」と言うもので、この「拘り」とは辞書では「自分にとっての意義」とありまさにその通りで、どこまでどの程度までの線引きもこの「拘り」である。

例えば、陶芸はろくろ引き,素焼き、絵付け、本焼き→使える陶器であり、芸術の域に達する一品までは求めない。

トンボ玉であれば、いろんなガラスで一般的なネックレスやストラップの様なアクセサリーが作れるまでで、トンボ玉の先にあるガラス工芸までには行かない。やりたいところに達するための、道具の購入や、技術の取得までは粘り強く収集し、取得する。

武道は既に長年関わっているが、始めた頃から現在まで、常に武道を意識した体力造りや食生活をしている。

結局それを生かす場(実際に使う場)は今まで、酔っぱらった先輩を抑えたり、チンピラに絡まられそうになった時に、毅然とした程度で、あまり行使する機会は無かった。

しかし、練習試合や大会、段位の取得など都度目標があり、それに向かって練習や鍛錬、時間を作ることには拘って、他を抑えてやって来た。

それは「拘った」からである。その拘りが我儘と思われることもあったと思うし、それがゆえに仲間との付き合いが薄くなったり、誤解されることも多かったと思う。

しかし、この拘りが、仕事や、仲間関係、後輩への指導、アドバイス等で「描く人生の在り方」への共感を呼ぶ事もあり、それが信頼、信望になることもあった。

  • 物事に取り組む時に考える

まだ人生が終わったわけではないが、過去を変えることはできない、しかし将来は変えることができる。しかし将来は過去の上以外に立脚しえないと思っている。

だから、自身の面白そうと思ったことに「拘る」こと、与えられた仕事の過程と成果に「拘る」ことにより今がある事を考えると、この先の将来もこの「拘り」を大事にしてゆきたいと感じる。

そうでないと、過去を否定することになり、人生がいつ終わるか判らないと思えば、振り返って後悔しないことを最後の満足・幸せとするのであれば、まだまだ「拘り」たい。

  • まとめ

最後にテーマに対して答えるとすると、どちらもその時々の拘りの対象であるならば、仕事も趣味も同一線上にあるという事だ。

しかし、長い人生で、いろんなイベント軸があるので、その時々で軽重はあるだろう。

例えば、結婚して、子供ができて、子供を育ててと言うイベント軸では、その時々に拘る対象がある。

また、人生の内、40年以上仕事をするとすると、そのイベント軸がある。

就職、転職したり、出世したり、退職したり、職場が変わったり、転勤したりと、これもその時々の拘りがあり、それぞれのイベント軸が同時進行なので、どうしても、その軽重はある。

全てを全力で立ち向かうのは相当厳しいし、きついことである。一日24時間しかないのだから、優先順位や何をどこまではするかを決めて、満足できる達成レベルを決め、それを超えることで良しとする。

そう言う上手な割り切りが必要なのです。1日、1か月3か月、6か月、1年、3年と短長期的に区切って、すべきことを整理すれば、その優先順位や、どこまでやるかが自ずと見えてくる。

そういう見方をすれば、仕事への取り組、趣味への取り組みなどが見えてきて、それぞれが同列に並べて考えることができる。この優先順位の付け方とか、成果に対する満足とが無理なく受け入れられる人が幸せな人なのだと感じる。

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