ミルコ日記

趣味や日々の思いを綴ります。

安倍元総理大臣国葬に思う1

 安倍元総理大臣(以下安倍さんと呼ばせて貰います)の国葬が9月27日火曜に挙行される。

山上被告による狂気の殺害の7月8日土曜日の昼、ニュースを見る為に付けたTVの緊急ニュースで知り、呆然とした。暫くはまだ生死が判然としていなかった為、一命を取り留めることを心から祈った。しかし、射撃された後の緊急処置が不明な中、30分以上経って橿原市の病院に搬送されたのを見て嫌な予感がした。

結果、夕方には死亡が確認され、7月8日の午後はまさに悪夢の展開だった。一市民の私にはじっと状況を見るしかなかったが、政界人、識者の反応は、この暴挙を非難し、故人を惜しむ言葉が相次いだ。怒りとか悲しみとかより、とにかくこの不条理に何故安倍さんがそんな目に合わなければならないのか、この現実は余りに空しく、受け入れられない思いで一杯だった。

犯行のあった奈良大和西大寺駅は数度通過した程度だが、地方都市のハブ的駅前で人通りもあるので、演説ポイントとして選ばれて当然と思うところである。しかし、元総理大臣が演説に立つのであれば、警護に関して余りに手薄で、平和ボケしたとは言え余りに情けなく恥ずかしいレベルの危機意識であることが露呈したばかりでは無く、その後すぐ当該主幹県警から飛び出す犯人の供述内容が変に出来すぎていて驚いた。どう考えても責められるべきは山上本人であり、それを防げなかった県警、SPであるはずが、何故か旧統一教会が山上母子をして犯行をなさしめた原因と言う方向に向き始めるのだ。また、元海上自衛官であるとか、元統一教会への寄付で破産したのが20年も前であるとか、安倍さんに私怨は無いが、旧統一教会イベントへの祝辞のスピーチ動画を送った事で殺意の対象となり、綿密に準備をして実行に及んだと言うリーク情報が面白いように出てくるが、どうも変である。直接旧統一教会に向けるべき憎悪の念が、常識として山上が殺害を実行するほどの情念を安倍さんに向けるとはどうしても考ええないものだった。このモヤモヤ感はネット上の保守派論客人の中で直ぐに共有された。それどころか、数日して明確になる手製散弾銃による発砲自体の不自然さや、致命傷となる銃弾が出てこない事、死亡時点での医師の所見と警察の発表の矛盾もこんな白昼衆人の前で起こった事件の死因すら疑似を呈する説得力のある意見が出ていた。

予想通り朝日、毎日、東京新聞などは安倍氏自民党、旧統一教会を結び付けて、モリカケ、サクラの乗りでプロパガンダを始める。左翼連中も当初の弔意からいつものアベガーに戻って行った。いったい死者を悼む日本人の心はどこに行ったのか…それはさておき話を戻す。

 この暴挙が参議院選挙のさ中にあり、弔い合戦でしっかり勝利した自民党総裁の岸田首相が程なく「国葬儀」を決定した。これには保守国民は空虚感の中、幾ばくかの慰めを感じた。しかし、この国葬+儀と言う言葉に若干違和感を感じた。国葬で良いではないかと思ったのだ。この「儀」と言う一文字で、これが宗教色を帯びない儀式典礼であることを担保していると言うのは、その後の識者の説明で判ったが、該当する法律が無い為、国の式典一般を閣議了解で決定できるとする内閣法によると言う事だった。

まあ税金を投入するからには法的根拠が必要なのは当然だが、日本として国を挙げて故人を弔う事には変わりなく、安倍さんは国葬に値する人物であることに疑いは無い。逆過去の総理経験者にれに相当する人物を思い浮かぶかと言うと思い当たらない。戦後の吉田茂国葬であったが、では祖父の岸信介はどうだったか、やはり国を二分する日米安保条約を締結した傑物であった。また、佐藤栄作中曽根康弘元総理はどうなんだとなる。実際、当時の政府の答弁書自民党内閣合同葬とか国民葬とかいろいろのカタチを相当とする記載があり、読めばなるほどと思われるが、安倍さんとの明らかな違いは、この悲報が触れた各国が即弔意を示し、国として喪に服する等、今まで歴代の総理には無いくらいの世界への影響を及ぼした方であり、更に不条理な暗殺により命を奪われたと言う事だ。これだけで国葬として弔うのは当然では無いか。前例がないことが、該当しない理由にはならない、ましてや国会ので討議すべき事か、多数決で決することではなかろう。これこそ、日本人らしく根回しで合意し、時の内閣が閣議決定するので良いのではないか。(岸田政権が各所に根回ししなかったのは、このごたごたを招いたと思う)

一にも二にも判断は間違ってなかったが、初手の根回しが必要だった。世論調査でも国葬に同意する意見が半数に上っていたし、マスコミ、野党も同情的で一気に合意を取れていれば、今の様に死者を冒涜し、海外から訝しく思われる状況にはなっていなかったはずだ。まずは国葬迄の顛末の所感とし、安倍さんを悼む思いを次の稿に託すとする。